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パルテノン神殿 Parthenon abcdefg02

パルテノン神殿 Parthenon

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パルテノン神殿 Parthenon
 パルテノン神殿(ローマ字: Parthenon)は、古代ギリシア時代にアテナイのアクロポリスの上に建設された、アテナイの守護神であるギリシア神話の女神アテーナーを祀る神殿。紀元前447年に建設が始まり、紀元前438年に完工、装飾等は紀元前431年まで行われた。パルテノン神殿はギリシア古代建築を現代に伝える最も重要な、ドーリア式建造物の最高峰と見なされる。装飾彫刻もギリシア美術の傑作である。この神殿は古代ギリシアそして民主政アテナイの象徴であり、世界的な文化遺産として世界遺産に認定されている。 神殿は完全な新築ではなく、この地には古パルテノンと呼ばれるアテーナーの神殿があったが、紀元前480年のペルシア戦争にて破壊された後に再建され、当時あった多くの神殿と同様にデロス同盟、そして後のアテナイ帝国の国庫として使われた。6世紀にはパルテノン神殿はキリスト教に取り込まれ、生神女マリヤ聖堂となった。オスマン帝国の占領後の1460年代初頭にはモスクへと変えられ、神殿内にはミナレットが設けられた。1687年9月26日、オスマン帝国によって火薬庫として使われていた神殿はヴェネツィア共和国の攻撃によって爆発炎上し、神殿建築や彫刻などはひどい損傷を受けた。1806年、オスマン帝国の了承を得たエルギン伯は、神殿から焼け残った彫刻類を取り外して持ち去った。これらは1816年にロンドンの大英博物館に売却され、現在でもエルギン・マーブルまたはパルテノン・マーブルの名で展示されている。ギリシア政府はこれら彫刻の返却を求めているが、実現には至っていない。ギリシア文化・観光庁は、パルテノン神殿の部分的な破壊の修復や保全など、後世に伝えるための再建計画を実行している。 パルテノン神殿のある丘の下の方は、世界ラリー選手権(WRC)の一戦、アクロポリス・ラリーのスタート地点としても有名である。
「パルテノン」の名称はギリシア語の(処女宮)から来ており、パルテノン神殿内にはその名称がつけられる由来となった特別な部屋が備えられていたという。ただし、その部屋がどこか、また何故そのように呼ばれたのかという点には諸説ある。古典ギリシア語辞典では、この部屋は西の房にあったと言い、ジェフリー・M・ヒューイットは、パンアテナイア祭でアレフォロスが仕立てたペプロスをアテーナーに献上するため、4人の少女が服を選ぶ部屋だと述べた。クリストファー・ペリングは、アテーナー・パルテノス(処女のアテーナー)への信仰は個別的なアテーナー崇拝から起こり、密接に関連しながらも同一化することなく、やがて守り神としてのアテーナー信仰となったと主張した。この考えによれば、「パルテノン」は「処女神の宮殿」と意味し、アテーナー・パルテノスへの信仰との関連性を持つことになる。「乙女、少女」であると同時に「処女、未婚の女性」を意味し、特に野獣・狩り・植物の女神アルテミスを指して使われる「parthenos」が、戦略と戦術・手芸そして実践理性を司るアテーナーに冠せられている理由も不明瞭である。その一方で、宮殿の名称が「処女」を暗示する点については、都市の安全を祈願するために処女が最高の人身御供にされたことに関連すると指摘した意見もある。 この建造物全体を「パルテノン」と形容する最初の例は、紀元前4世紀の演説者デモステネスに見られる。ただし5世紀の例では、ただ単に「ho naos」(the temple‐「神殿」)と呼ばれた。建築家のムネシクレスとカリクラテスは、今は失われた文書でこの建築物を「ヘカトンペドス」(Hekatompedos- the hundred footer‐「千足」)と呼んでいた[要出典]。1世紀にプルタルコスは「ヘカトンペドン・パルテノン」と表記し、4世紀以降にはヘカトンペドス、ヘカトンペドン、パルテノンの呼称がそれぞれ使われた。

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